イタリアのバイクメーカー、ビモータの黎明期

ビモータは1966年、マッシモ・タンブリーニ、ジュゼッペ・モーリ、ヴァレリオ・ビアンキの3人がリミニに設立した空調整備会社でした。

会社名の由来は、3人の姓から最初の2文字ずつ取って組み合わせたものです。

最初は空調整備会社であったビモータがバイクに関わるようになったのは、創立者の1人であるタンブリーニがかなりのバイクマニアであったことがきっかけでした。

タンブリーニが、1972年に趣味で参加したバイクレースの際に大破してしまった、自分のホンダ製バイクを空調整備という仕事で慣れていたパイプ加工技術を活かすことで、フレームから作り直したのですが、これが後にビモータから発売されるHB1の原型となっただけでなく、ビモータの第1号車にもなりました。

この車両が評判を呼び、1973年になるとフレームビルダー業務を本業とは別の、ビモータメカニカとして開始しますが、それは創業者の1人だったビアンキは会社を去った後でした。

 

初めの頃は日本者向けにスペシャルパーツを製造販売したり、レース用フレームを製作、供給したりすることが主な業務でした。

ビモータ製フレームを採用していたレースチームには、ハーレー(アエルマッキ)、モルビデリ、パトンなどがあり、これらのレースチームが活躍するようになります。

1980年、ヤマハの市販レーサーTZ350エンジン搭載のYB3が、世界グランプリの350ccクラスにおいて優勝を果たしたことから名前が広まり、市販車を本格的に販売開始するようになった頃には、完全に空調整備業務はやめてバイク製造会社となっていました。

この頃のビモータ製フレームの特徴は、主に鋼管製でヘッドパイプは前後左右から支える、同軸ピボットスイングアームにするなど、独自性の強い構造のものが多かったことが挙げられます。

 

ビモータの黄金期と倒産、復活

1983年、バイク製造へ転身するきっかけを作ったタンブリーニも会社を去り、ドゥカティから移ってきたフェデリコ・マルティーニがチーフエンジニアを務めるようになります。

しかし、ミラノショーに出品した試作車がもうすぐ市販されるという誤解が広まったことから、既存の車種が買い控えされて経営危機に陥ります。

ところが1985年には、ドゥカティエンジンの供給を受けて開発、発売したDB1が高評価を受けたことで、経営危機から脱却するだけの収益を上げました。

この頃がビモータの黄金期となります。

 

1989年になるとマルティーニがジレラに移り、今度はピエルルイジ・マルコーニがチーフエンジニアを務めるようになります。

しばらくは好調でしたが、1993年には3人の中で唯一残っていた創業者、モーリが去ってしまい、テージ1Dが商業的に未成功のまま1994年の生産終了を迎えると、ビモータは経営方針を変えていきます。

その中で大きな負債を抱えるほどの失敗をし、多くの優秀なスタッフがビモータを去りました。

 

1999年、マルコーニが残していったSB8Rを販売、これによって復活を目指すことになりました。

2000年にスポンサーとしてリーバイスがつき、SB8RのホモロゲーションモデルであるSB8Kでスーパーバイク世界選手権に参加、アンソニー・ゴバートの見事なライディングによって2戦目での優勝を実現させ、技術の高さをアピールしましたが、シーズン途中でリーバイスが撤退したことでチームが空中分解します。

そして市販車のSB8Rもヒットせず、倒産したのです。

 

ビモータの復活は2003年、資産家のロベルト・コミーニが買い取って企業活動を再開したことで始まります。

初期のビモータと同様に高品質・少数生産という方針のもと、様々なモデルを開発、販売しながら続いています。

 

ビモータの車種と特徴

大手メーカー製エンジンを自社製フレームに搭載して製作している、凝ったつくりのために少量生産、高価な車種が多いことが特徴となっています。

ビモータが販売したモデルには、ホンダ製エンジン搭載のHB、カワサキ製エンジン搭載のKB、スズキ製エンジン搭載のSB、ドゥカティ製エンジン搭載のDB、BMW製エンジン搭載のBB、ヤマハ製エンジン搭載のYBの各シリーズ、テージシリーズ、Vデュエがあります。

テージシリーズとVデュエ以外を見れば分かるように、ビモータのモデル名前は搭載エンジンのメーカー名の頭文字とビモータの頭文字Bを組み合わせており、シリーズの何作目かが数字としてついています。

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